「Thank you, sir!」

雪どけの季節、泥が混じりあうジャリジャリの車道の端を、 年頃6歳ぐらいの少女が歩いています。

 

フルーツの飾りがのった、つばの広いハットを目深にかぶり、泥だらけのだぶだぶのドレス。

そして、裾からのぞく足は・・・素足で、足首までしもやけで真っ赤に腫れ上がっているのが見えています。

 

少女はそれでも、一歩一歩、融けた雪の中に足を突っ込みながら どこかへ行こうとしています。

 

どうみても危ない格好に、誰も厄介なことにかかわりたくないと 避けるように通り過ぎる中、 

 

一人の紳士が近づいてきて、質問します。

 

「君は なぜ、そんな格好で ここを歩いているんだい?」

 

その投げかけに、その子は まっすぐに答えます。

 

「僕は、明日 両足を切断します。 この足を使って歩くのは 今日が最後なので、病院から抜け出してきました。着る物はこれしかなかったのです」

 

しっかりと見上げて話す顔は、少年のものでした。

 

紳士は 表情も変えず、少年をなじみの靴屋に連れて行き、靴を与えようとしました。が、少年は、

 

「靴は要りません。雪の強烈な冷たさも、足があるから感じられること。この感覚も足の記憶として大切に焼き付けておきたいのです。 靴は・・・一度しか履けないのに、もったいないです。」

 

「必要なくなれば、売ればいい」 

 

紳士はひとこと言い、少年にぴったり合う靴を選びました。

 

最初いぶかしがっていた靴屋の店主も、自分の息子のお古の服を持ち出してきて、少年に着せました。

 

見違えるように、「少年」にもどった少年は、

紳士を見上げ、熱い涙をいっぱい溜めながら、体の中から搾り出すように言います。

 

「Thank you, sir!」

「Thank you, sir!」

「Thank you, sir!」

 

それしか 言葉は 出てきませんでした。

 

 

 

目が覚めると、少年は病院のベットの上にいました。

 

約束どおり 両足はもうなく、足のところのシーツがへこんでいます。

 

でも、目は 傍に置いてある靴をすぐに探し当て、いっぱい飛び散った泥染みを誇らしげになぞります。

 

「僕は 確かに、この靴に足を通した」 

 

そのときの高揚感とともに胸が熱くなる気持ちが戻ってきて、少年は目をつむり、

その感覚をぐっと反芻していました。

 

そのとき、人が入ってきます。昨日の紳士です。

 

「見舞いに来た。さぁ、これが、今日から君の足だ」

 

赤い丸いレバーがついた、電動式車椅子。

 

「・・・どうして、ここまで僕にしてくれるのですか?」 少年が聞くと、

 

「わたしも君と同じなんだよ。これがないと わたしの好きな音楽が聞こえない」

 

彼は左耳を見せながら静かに語りました。耳には肌色の補聴器がはまっています。

 

「人は、誰でもサイボーグみたいなものなんだよ。これからは、もっと多くの体の部位に機械がはめ込まれる時代がくるだろう。だが、どんな部分が機械仕掛けになろうと・・・人は人として生きれる」

 

紳士もまた、昨日、少年が連呼した言葉が耳に焼き付いていました。

それは、彼の長い人生の中で 初めて聞いた「本物の感謝の響き」でした。

 

今まで行ったどんな偉大な事業からも 得られなかった、「音」。

人生も終盤になった頃、たった一足の靴によって彼にもたらされたギフトでした。

 

 

その後、下半身が機械になった少年と耳が機械になった紳士は、あらゆるところに一緒に出かけて行きます。

オペラハウスに肩を並べて座っている姿も見かけられました。

 

そして、少年は人の機能の一部となる装置の開発に生涯をささげていきます。

 

少年が老人になり、臨終を迎えようとしています。

 

ベットの周りには、半分以上機械仕掛けになった人間たちが、ぐるっと囲み、

生みの親である老人の旅立ちを、笑顔で見送っています。

 

「Thank you, sir!」

「Thank you, sir!」

「Thank you, sir!」

 

既に音が無くなった世界で、皆の口元が確かにそう動いているのが 分かります。

 

彼は、あのときの紳士の気持ちと自分が重なるのを感じながら・・・先に旅立った紳士の元へと、目を閉じていきます。    ーEND-

 

 

 

 ・・・・先日のダレルさんの過去生を見ていく瞑想中、視えたストーリーのひとつです。

 

左耳が聞こえない・・・というところで、この紳士がわたしの「父」にあたることが分かりました。

 

最初、年代は?の問いかけに 「1970年」と出てきて、

一瞬、着ている格好と年代がマッチしないので、???となったのですが、

 

後から、この「1970年」というのは、わたしの1歳前後にあたり、歩行器を与えられて喜んで乗っていた時期と重なることに気づきました。

 

まだ、足で歩けない時期、「自分の意思で動きたい」、「行きたいところへ行きたい」 「どうしても歩きたい」という想いを、父が汲んで、叶えてくれたんだ・・・と、今、思います。

 

わたしの熱い想い、声にならない喜びを、彼だけは聞いていてくれたんだと、涙がこぼれました。

 

こんな関係が父との間にあったなんて、この歳で初めて気づきました。

 

「Thank you, dad!」

 

あなたのくれたこの「足」は、素晴らしく丈夫で、よく動きます。

 

この「足」のおかげで、わたしは、日本アルプスをはじめ、多くの美しい自然の光景を実際に目に映すことができました。

 

そして、今もよく働くこの「足」は、わたしの行きたいところに いつもわたしを置いてくれています。

 

「Thank you, sir!」・・・・ありがとう、お父さん。