メルカリの世界でいいなぁと思ったところ。
●【写真は正直に】
これまで写真を撮ることは好きだったのでわたしの日常でしたが、ブログもインスタも加工は当たり前、色や光を盛っていました。でもメルカリの場合、実物と違うことはトラブルのもとになるので、自然光で撮るようにし、できるだけ「そのもの」をそのまま伝えるようにしました。
大事なことは、傷や汚れ、欠けているところを隠さずぜんぶ表現することです。でもね、この文化がわたしは実にいいなぁと思ったのですよ。
ここ汚れてます。ここ欠けています。ここに傷があります。そして、「このわたしでよければどうぞもらってください」ということで、それを全部承知の上で買ってくれる方がいるのですよ。
こんなに潔い取引があるでしょうか?
就職も結婚もそうですけど、いいところだけ見せて契約するとあとで必ず苦しくなります。「ここがわたしの欠点です」「ここがわたし出来ないんです」と先に正直に伝えた上で取引が成立したら、末永くかわいがってもらえる。
わたしね、こういう世界があったんだなぁって。すごく気持ちがいい世界だなぁって心が震えたんです。
●【コメントは定型文で】
コメントを自分で考えることなく定型文をなぞればいいというのも、わたしにとってはよかったですね。胸をなでおろしました。
文字でのやり取りは基本苦手なわたしは、メルカリを避けたかったいちばんの理由はコメントのやり取りに自信がなかったからです。
それでも、できるだけコメントのやり取りが無いよう工夫はしました。値段は最初から高めに設定しないで最低値段で提示し「即購入OK」と書いておく。寸法など相手が知りたいことを先に書いておく。など、できるだけ質問や値段交渉がなくても即決できるようにしたりね。
そして、商品を梱包する際に「メッセージカード」を添える方もいらっしゃると思うんですけど、わたしはそれを最初からしないことに決めたんです。
それよりも美しく梱包することに心を配りました。箱を開けたとき、「わぁ、きれいな品物だな」「思っていたものよりもいい品物が届いたな」という喜びやお得感を感じてもらえたらいいなって。
きれいにアイロンをかけたり、シワにならないように包んだり・・・。言葉は添えていないけれど、別のなにかで心が伝わるように・・・。
●【梱包は丁寧に、自己満足でOK】
せっかくクリーニングに出してきれいに保管していた服を、圧縮して送りたくなくって、一回り大きな箱に入れて送ったりもしました。それによって送料が多めにかかったとしても、「いいお品物をありがとうございます」「満足しています」と購入者の方の評価コメントをいただくたび、あぁ、喜んでいただけたなと思い、わたしも最高に満ち足りたんです。
送り方も、どこまでも自己満足を追求していいんだって思った時は「よし!」って思いましたよ。
実は、昨年の夏の活動として10年ぶりにパートに出てみたのですけど、そのとき店長から「たかが800円~900円の定食を提供する店に、南澤さんのサービスは過剰です。料亭じゃないんだから」と怒られてから、そうかぁ、わたしのサービスはここではいらないんだぁと、しゅんとしていたのです。
でも、メルカリの世界では、どんなに時間がかかっても、どんなに丁寧に取り組んでも ”喜んでもらうことこそあれ、怒られることはない”。あぁ、わたしの居場所はここだったんだなぁと、ここにたどり着けたことにじんわり幸せを感じていたんです。
そうしたらね、そんな姿を傍から眺めていた主人が、「毎日輝いてるね」「天職だね」て言ってくれたんですよ。
天職とは?
わたしもそう思います・・・。もともと写真を撮ることは日常でしたし(どちらかというと「人物」よりも「モノや空間」を撮ることの方が好き)、馬鹿丁寧に包むのは、こだわりというかわたしの癖のようなものでしたし。毎日運動したいなって思っていたわたしにとって、一日に何度もコンビニを往復するのは心地いい運動となったんです。
そういえば、わたし、いつだったか・・・「内職したいな」って思っていたことがあったなぁ。家事の合間に「自分のペース」で手を動かす仕事ってないかなぁって。わたしは外の世界でその場のルールに合わせて働くよりも、家の中の内の世界での作業の方が向いているのかもしれません。
天職って、なにか使命のように、仰々しい大きなことのように感じていたけれど、こんな日常の中に溶け込んでいたんですね。日常の中に溶け込んでいる才能を掘り起こすことで、自然にできる活動のことをいうのかもしれません。
そして、その活動は貫かなくってもいいし、変わっていってもいい。一個じゃなくて、いくつもあってもいい。きっと「メルカリ」じゃなくても、同じように自分の自然な能力を活かし切ってやることはぜんぶ、「天職」なのだと今は思うようになりました。
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「あなたの良さを掘り起こし、回復し、自由にし、自分自身の良さ、素晴らしさ、あなたらしさ、というところにますますあなたを戻していきますと主が言われます。そして、自分が自分であることに、あなたが立てば立つほど、何か心が自由になっていく。またあなたの心が、もっともっと押し広げられていって、どんな人々の中にいたとしても、どんな物事の中にいたとしても、あなたが自分が自分でいることができる、そこにあなたの心がしっかりと据えられはじめていきますよと主が言われます。ですから、気が付いたら自由になっている。気が付いたら「自分自身」というものにあなた自身がちゃんと向き合っていて、あなたがそこに立っている。そのような姿をあなたは見ていきますよと主が言われます」(5月の預言より)
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